賛同者インタビューvol.3【糸田川 廣志 様】

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  3. 賛同者インタビューvol.3【糸田川 廣志 様】

本プロジェクトは、徳島県東みよし町における地方創生の一環として取り組んでおります。こちらのインタビューは、プロジェクトへ賛同いただいた、東みよし町並びに徳島県にゆかりのあり、現在は都市部でご活躍されている方を対象に実施してまいります。

第三弾は、旧池田町(現・三好市)のご出身で、大阪では上下水道の設計会社、東みよし町では水環境コンサルタント会社を経営されながら、「東みよし近畿ふるさと会会長」「徳島県人会近畿連合会副会長」としてもご活躍をされている糸田川 廣志様にお話を伺いました

 

 

-生まれ育った徳島県での思い出や幼少期をどのように過ごされてきたかをお聞かせください。

生まれは池田町(現在は三好市)です。

日本専売公社(JT)に親が務めていて、転勤がありましたので私が小学生の時に徳島市の方に引っ越しました。

 

小さい頃に住んでいた池田町は雪も多く、周辺の環境も田んぼだらけのところで育ちました。

季節になるとそこら中で蛍が飛び回っていたのが印象的でしたね。

水がきれいで、コンクリートでない水路ばかりの地域だったので生息しやすかったのだと思います。最近のようにわざわざ山奥などに行かなくても、本当にそこら中にたくさんいるような自然豊かなところでした。

 

小学生の頃は、男の子はみんなやっていたと言っていいほど野球が流行った時代で、私もご多分に漏れず野球に明け暮れていましたが、陸上も得意で走り高跳びの記録が学校で一番だったこともあり、先生に誘われて中学生のときに陸上競技を選択しました。

 

その当時はまだ今のような全国大会などはありませんでしたので、各都道府県単位でそれぞれの記録で競うのですが、中学校3年生のときに全国10位ぐらいの記録を出すことができました。そのぐらい青春時代は真剣にスポーツに打ち込んでいました。

しかし、高校では骨折やアキレス腱断裂など怪我に悩まされでしまい、当時は悔しい思いをしましたね・・・。

 

 

-現在のお仕事とそこに至るまでの経緯について教えてください。

まずは大学から土木工学を学び始めたことがきっかけです。

親には反対されましたが、黙って立命館の土木工学科を受験しました。高度成長期だった当時は日本中で新しい建築物が増え続けていて、建設や土木といったインフラ関係の成長分野に進みたいと考えました。

体育教師になるかも迷ったのですが、数学が好きだったことで工学系への進学を思い描くようになりました。

 

大学はいくつか受験したのですが、親には黙って受験した土木工学科からの合格通知が来たときには、両親からあまり歓迎されなかったことをよく覚えています(笑)

成長分野ではありましたが親としてはイメージが悪かったのでしょうね。

 

しかし結局は自分の志望通りに進学し、そこで学んだことを活かして卒業後は京都の設計会社に就職しました。

 

大学時代はと言うと、単位を取るのが厳しい学科ではありましたが、なんとか4年で卒業することができました。

百貨店の催し会場や測量などのアルバイトをしながら、学生生活を送っていました。学生寮に入っていた時期もあって、麻雀には寮生の人たちからよく誘われましたね。

それほどに勉学に打ち込んだということもありませんでしたが、大学時代に知り合った他の学部の人とは今でも親交を続けています。

 

就職した京都の設計会社では2年ほど勤務をしました。

私が在学中に立命館大学の助手として勤めていた恩師から、ずっと起業を誘われていたのですが、その方が民間に移り、起業をされるタイミングで声をかけられて、昭和49年に約束通りに設計会社を立ち上げました。

まだ就職して2年ほどでしたし、実はそのタイミングでの退職や起業にはかなり迷いもあったのですが、一緒に起業することは卒業時の約束でもあったので踏み切りました。

 

就職した会社と同業種であったため、サラリーマン時代に培った経験もあり何とかなるだろうとは思いました。

また、出会いにも恵まれ、前会社の2年目に建設省のOBの方の下で仕事をすることになり、その方からは徹底的に厳しい指導を受けました。本当に厳しい方でしたよ(笑)

ですが、それは技術力向上のチャンスだと感じたし、私を指導してくださったそのOBの方や、会社を退職し同業種での独立をしたにもかかわらず温かく見守って応援いただけた最初の会社の社長には本当に感謝しています。

 

だからこそ、同業の私が自身の事業を成功させていくことで、元の会社にも恩返ししていくことができると考え、起業してからは陸上で培った体力や根性を活かして、残業や徹夜も当たり前なほどガムシャラに働きました。

 

第一線で仕事に当たってきたので体はしんどかったのですが、経営面で大きく苦労したとは感じませんでした。一緒に起業した恩師と着実な経営を心掛けていましたので、幸いにも会社が大きく傾いたこともありません。

 

おかげさまで今は大阪府の吹田市に自社ビルを構えられるぐらいに成長させることもでき、会社の経営基盤にも恩返ししていくこともできたので本当に嬉しく思っています。

 

 

-徳島を盛り上げていくために現在はどのような活動をされているのでしょうか?

東みよし近畿ふるさと会や徳島県人会近畿連合会に参加して、徳島と関西でのネットワークを繋ぐような活動をもう30年ほど続けています。

 

仕事関係でのネットワークもできるし、行政ともお付き合いして協力していけるので是非たくさんの人に参加してもらいたいと思っています。

 

徳島や東みよし町の良いところ勉強して、それをどうやってアピールしていくのかといったようなことを、阿波弁でメンバーとディスカッションしながら発信していくことがとても楽しいですね。

 

また2005年に、東みよし町に個人会社を設立しました。納税は故郷に還元です。

東みよし町には下水処理場があるのですが、その設計を手掛けてきたので、最後まで維持やサポートを続けていきたい気持ちがあって会社を作ることになりました。

 

そうやって今は徳島と大阪の両方で仕事をしていますが、アクセスも良く二拠点での仕事をしていくこともハードルは高くないと感じています。

県人会やふるさと会のような繋がりも活用して、若い皆さんにもどんどん仕事のエリアを広げたり、新しい働き方をしていくことにもチャレンジしてもらいたいですね。

 

 

-徳島や東みよし町の経営者の皆さま、ものづくりに携わる皆さまにメッセージをお願いします。

私が大阪・東みよしの両方で活動していますのでその視点で言いますと、将来を見据えて、資格取得に積極的に取り組み、ヘッドハンティングなどの人材育成・発掘にもっと力を入れていってほしいと思っています。

地方は、人の数に限りのある地元だけでなく、外部からどんどんヘッドハンティングなどをして、有能な人材や、やる気のある人材を連れてきて、地元ならでは仕事やノウハウなどを伝えていくことが大切です。

 

都市圏には最新の情報や技術などがたくさんあります。

一時的なレンタルのような形であってもいいので、外部の人間を引っ張って来ないと地方で新しい動きは始まりません。

 

まずはコネクションを活かしていくことが近道だと思うので、県人会やふるさと会でも人材を探したり、お繋ぎするサポートをしていきたいと思っています。

最新の情報やノウハウを持った人間とのネットワークは都市部の方でどんどん作っていくようにしますので、ヘッドハンティングやレンタルを考えていきたい会社さんにはぜひ相談してきてもらいたいです。

 

最後に、良い人材に来てもらい育てていくためには、仕事の面白さを若い人たちにどう伝えていくかが大切なことだと思っています。

教えることには我慢が必要ですが、それでも一緒に仕事をして導いていくことです。

やらせてみて、できるかできないかを判断して、どこまで自分が手を出すかを考えること。

そして自身の仕事をこなしつつも、メリハリをつけて指導できるかどうかが大切です。

そうすることが自分自身の向上にも繋がりますし、導くということを忘れないよう思いやりを持って一緒に仕事をしていくことで人材も成長します。

 

それは、仕事をする上で私自身が大切にしてきたことであり、私が若い頃に共に起業した恩師・最初の会社社長・建設省OBの方たちから学ばせてもらったことです。